私のものさし、おじいさんのものさし

暖かそうな帽子とセーターを身に付け、バナナを食べていたおじいさん。話しかけると、聞いていたラジオを止め、話をしてくれた。
昭和10年生まれの、75歳。名前は聞かなくても良いだろ、ということで教えてもらえなかったが、公園暮らしを始めて、もう20年以上が経過する。出身は北海道だが、本人曰く、ギャンブルで身を崩して、故郷に帰れなくなってしまったとのこと。75歳で路上生活は大変なのではないかと思い、生活保護のことについて聞いてみると、生活保護は受けないと言い切った。体が動くかぎりは、福祉にかかるつもりはないと言う。倒れたら誰かが救急車を呼んでくれるさ。その口ぶりは、どこか寂しそうに聞こえた。


ところで、私がホームレスの人たちのことで気になるのは、彼らの食生活である。歯ブラシを使っていないのだろう、歯が斜めに欠けていたり、真っ黒になっているのを見るたびに、果たして彼らは食事をどうしているのだろう、と思っていた。一度炊き出しのご飯を食べたことがあるが、その時のご飯は、普段の食卓に並ぶような、普通のご飯の硬さであった。それを噛み合わせを持たない人が食べるのは、ものすごく大変なことなのではないだろうか。炊き出しのご飯はあのままで良いのか、という疑問もある。人それぞれ違うのかもしれないが、今回話をしてくれたおじいさんは一つの答えをくれた。
おじいさんの食事は炊き出しと、ボランティアの人が持ってくる食べ物で成り立っている。炊き出しはあちこちで行われているため、そこに出かければ食事は手に入る。しかし、歯がないために噛むことが出来ない。硬いご飯を飲み込むとお腹を壊してしまうため、毎回お湯をかけ、柔らかくしてから食べるのだそうだ。もっと良いものを食べたいと思わないかと尋ねると、おじいさんはこう答えた。「食べられるだけでありがたい。」年齢や健康状態を加味して作られた食事の前に、『食べれるか否か』ということが問題であることに改めて気付かされた。
別れ際、話をして頂いたお礼にお茶を差し出す。私は今回、お礼にはコーヒーではなく、あえてお茶を選んだ。コーヒーを飲むことは、おじいさんたちの歯をもっと欠けさせてしまうことになると思ったからだ。けれど、おじいさんの言葉は予想にないものだった。「お茶はいらない。水を飲むのと一緒だから。コーヒーなら良いけど。甘いかしょっぱいのが良い。」その言葉で、私は彼らを自分の常識に当てはめて考えていたのだと強く感じた。


相手に自分の常識を押し付けてしまったことを反省する一方で、おじいさんの反応は矛盾しているとも感じる。「食べられるだけでありがたい」と言ったおじいさん。炊き出しを『人から与えられるもの』として考えると、お茶を受け取ることも炊き出し同様にできたのではないかと思うのだ。私のお茶は、なぜ受け取ってもらえなかったのだろう。一つ考えられるのは、渡した相手が『私』であったからということである。『私』は、おじいさんからすれば、孫くらいの年齢の、しかも女の子である。彼のプライドが、私から物をもらうことを許さなかったのかもしれない。


支援を受けることを恥ずかしいと思う気持ちは、おじいさんの「体が丈夫である限りは福祉を受けない」という態度にも表れているように思う。支援団体からの炊き出しや生活品の提供に頼る、ということは他人のお金で生活することを意味する。このように、他人に頼ることと生活保護を受けてより安全な暮らしをすることが、恩恵を受けるという意味で変わらないのであれば、おじいさんは生活保護も受けようとして良いはずだ。それをしようとしないのは、生活保護を受けることをおじいさんが『恥』とみなしているからではないだろうか。社会からの価値判断を気にさせてしまう、『スティグマ』という問題がここに表れている。


数日後、再び同じ場所を訪れると、おじいさんがいた。私のことを覚えていてくれたようだ。体調と最近の生活について尋ねると、乾いた笑みを浮かべて、体調は最高、楽しいことばっかりですよと答えた。以前とは違うぶっきらぼうな態度を見て、私は『私』と話したくないのだということを感じた。早々に会話を切り上げ、今回はコーヒーを差し入れる。「いらないよ。」…やはり、断られてしまった。


まだ20年も生きていない私。それでもこの年になるまでに本当に沢山のことがあって、一年一年を事細かに思い出すことなど到底できない。そんな、気の遠くなるような20年という歳月を、路上で生きてきたおじいさんの気持ちは、私のものさしでははかれないだろうと思う。そんな相手と話をしたい、ということであるならば、相手の気持ちをもっと思いやって、向かい合っていくことが必要なのだと感じた。

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