生活保護の申請に同行して

11月25日、僕は市役所にいた。
役所の小さな面談室の中で、僕はひどく慌てた顔をしていたと思う。
こんなはずじゃなかった。頭にはそれしか無かった。


新宿中央公園で活動を始めてから、ずっと仲良くして下さっている方がいる。
彼はもともと長野でタクシーの運転手をしていた。
東京に出てきたのは会社が潰れてからだと話してくれた。
それからは色々な仕事を転々として、今は三鷹市の道路清掃をしている。
仕事は不定期で、多いときには月に7-8万の稼ぎになる。
少ないときには4万くらい。それでも、食べていくには困らないらしかった。
僕のアルバイトの収入もそんなものだ。食べていくだけなら確かに何とかなる。


ただ、生活の条件は毎日の食事だけではない。
年齢を重ねるごとに、屋根のない公園での生活は厳しさを増す。
夏の暑さも冬の寒さも、全てそのまま引き受けなければならない。身体への負担はかなり大きい。
まして脚に軽度の障がいを持つ彼には、尚更のことだった。
今はとにかく、屋根が欲しい。その言葉を口にした時の彼の目は忘れられない。


それでも、すぐに生活保護の申請を選んだわけではなかった。
生活保護が開始される前に、行政は保護を開始するべきか審査を行う。
その審査の中で、親族に対する扶養の可否の確認がなされる。
生活保護を受けるためには、自分の窮状を親族に知られなければならないのだ。
何年も会っていない兄弟や親。そこに、自分が生活保護を申請していることを知らせる手紙が届く。
必要な審査だとは思う。けれど、このことに恥を感じて申請をためらう人は実際にいる。
彼もその1人だった。彼が保護の申請に踏み切ったのは、11月の10日を過ぎたころ。
初めて話をした夏はすっかり過ぎて、生活保護の申請を初めて提案してから2カ月が経っていた。


生活保護の申請は1人で行くと窓口で帰されることがある。これは水際作戦などと呼ばれたりもする。
こうした現状への対策として、僕は彼の申請に付き添うことにした。
といっても、僕が前面に立って話をしたわけではない。事情を話すのは保護を受ける本人の仕事だ。
三者がいることで、適正な手続きを確保することが目的だった。


結果から言えば、帰されることもなく申請はすぐに受理された。きちんと話も聞いてもらえた。同行の目的は果たされた。
しかし、その後が想定外だった。アパートに移るまでの期間の処遇についてだ。
想定していたのは、行政の持つ施設に入居するか、もしくは宿泊施設を利用することだった。
実際には、その市では宿泊施設を持っていなかった。NPOの運営する宿泊施設を行政から紹介された。
NPOによる運営と聞いて、いやな予感がした。少し詳しく話を聞いて、僕はひどく慌てた。
代替案を出したが、断られた。もともと他に道はなかった。


こんなはずじゃなかった。その言葉しか、頭になかった。


NPOの施設と聞けば、いい印象を持つ人は多いと思う。
ところが、一般に貧困ビジネスと呼ばれる施設を運営しているのもNPOなのだ。
今回、僕は見事に貧困ビジネスに引っかかった、ということになる。
しかも、行政の誘導にのって。


貧困ビジネスがどういったものなのかは、次の機会に書こうと思う。
ただ、覚えておいて欲しい。
貧困からの脱出には、思いのほか多くの障害がある。
時には、予想外のところにも。


@tsukaki1990