のぼれない階段はどこまで続く


この数ヶ月間、路上生活者と対話を行ってきたが、その中で、ある程度見えてきたものがある。


路上生活に至るまでの過程は、段階的なものである。
ここでは、現在定職に就き、アパートで生活を送っている人を想定して話を進める。
何らかの原因で職を失ったとしても、雇用保険の給付や貯金のある数か月の間はアパートに住みながら就職活動を行う。
その数カ月の間に職につけない場合は、親族や知人の扶助を受けて生活することになる。
しかし、もとよりそうした関係性を持たない、あるいはこれ以上扶助を受けられないという状況になった場合。
この時、彼は路上で生活するほかないということになる。


一方で、路上から脱出しようとする場合にはこうした段階は存在しない。
社会生活を送る上で「住居」と「安定した就労」は不可欠だが、この2つは切り離して考えることが出来ない。
住所を持たない人が就ける職は限られているし、アパートを確保するためには安定した就労によって資金を準備する必要がある。
どちらか一方から順々に手にすることは難しい。1度に両方を手にしなければならない。


すなわち、路上に至る過程は段階的に進み、一方で路上からの復帰は全か無かの2択になっている。


自らも日雇労働者としての経験を持つ生田武志氏は、これを「カフカの階段」と呼んだ。
この表現は、カフカの「父からの手紙」にある1節を参照したものだ。

「たとえてみると、ここに2人の男がいて、一人は低い階段を5段ゆっくり昇っていくのに、別の男は1段だけ、しかし少なくとも彼自身にとっては先の5段を合わせたのと同じ高さを、一気によじあがろうとしているようなものです。 先の男は、その5段ばかりか、さらに100段、1000段と着実に昇りつめていくでしょう。そして振幅の大きい、きわめて多難な人生を実現することでしょう。しかしその間に昇った階段の一つ一つは、彼にとってはたいしたことではない。ところがもう一人の男にとっては、あの1段は、険しい、全力を尽くしても登り切ることのできない階段であり、それを乗り越えられないことはもちろん、そもそもそれに取っつくことさえ不可能なのです。意義の度合いがまるでちがうのです。」

僕は、この「カフカの階段」の概念に2点付け加えるべき部分があると考えている。
1点目として、1段1段を細かく見てみる。
すると、それぞれの段の中に次の3つの過程があることに気づく。

1.抵抗
上の段に戻ろうとすること。例)再就職活動、バイト代を切り詰めて貯金しようとするなど
2.挫折
抵抗の失敗。例)就職先が決まらない、体を壊してバイトを長期にわたり休まざるを得ないなど
3.安定
今いる段に落ち着くこと。例)日雇いの仕事を始めるなど

こうした過程を踏んでいく中で、多くの場合は1段上での生活水準を維持できないばかりか、自信を喪失し、上の段への復帰意欲を失っていく。
湯浅誠氏の唱える「五重の排除」の概念を借りれば、「自分自身からの排除」が進行していくのである。(詳しくは岩波新書『反貧困』を参照)


そして2点目。この階段はどこまで続いているのだろうか。
これまで路上に暮らす人たちにお話を伺ってきた実感として、この階段は路上に至ってからも間違いなく続いている。
例として、日雇いの仕事(主に建築/土木業)で収入を得ている路上生活者を考えてみる。
年齢や体力などの影響で日雇いの仕事を得る頻度が減ると、収入源はアルミ缶の収集や古本の販売などに変わっていく。
これらの仕事で得られる収入は、一般に日雇いのそれと比べかなり少ない。
さらに体力が低下すれば、こうした仕事を行うのも難しくなり、支援団体の炊き出しなどに頼っていくようになる。
このことは、生活の自立性が失われていくということを意味する。
こうして階段を下るにしたがって、社会生活への復帰はより困難になっていき、自分自身からの排除はますます進行していく。


以上のことから分かるように、路上生活者は生活水準や意欲について一義的に定まらない。
こうした段階的な差異は、彼らについて考えるときに軽視してはならない。


@tsukaki1990