路上生活者の生存権


「健康で文化的な最低限度の生活」
よく聞くこの言葉は憲法25条に規定された生存権の文言です。
生きていく上で最低限の生活ができれば良いというものではありません。
人間らしく「健康で文化的な」生活が我々には保障されているのです。

「では、路上生活者は生存権が満たされているとは言えないのではないか?」

今回は「生存権とは何か」について法学に基き、法律家そして政府の解釈の実態について話そうと思います。




そもそも法的権利と呼ばれる人権は、侵害されたからといって全てが裁判所によって救済される訳ではありません。
例えば、一概には言えませんが、自由権などは侵害されれば裁判所に訴えて問題を解決して貰えます。
このような権利を具体的権利と呼んだりします。
一方で抽象的権利と呼ばれる権利があります。
これについては、憲法とは別に具体的な法律などが無いと裁判所は手を出せず、国会や行政によって救済して貰う形式をとります。多くの法律家の間では、生存権はこの抽象的権利に属すると考えられています。
路上生活者が生活が苦しいからといって裁判所は直接彼を助けることはしませんよね。
生活保護法という法律に基づいて行政が生活保護費を支払い救済します。
それでも行政が生活保護費を支払わないなど救済行為を怠れば、生活保護法に基づき裁判所が行政に働きかけます。

つまり、生存権とは行政の手によって救済されるべき権利なんだ、ということです。


では、当の行政側は生存権をどう捉えているのでしょう?
ここに問題があります。
実は政府の解釈では、生存権は法的権利とは認められていません。
政府は生存権について定めた憲法25条を、「実現するように政府は努力しましょう」と努力義務を定めただけのものだと考えているようです。こういう考え方をプログラム規定説と呼びます。
もちろん行政は生活保護などを実行し、努力をしています。
ただ、法解釈の面では生存権は法的権利ではないという見解があるのは事実です。


朝日訴訟、堀木訴訟など。
余談ですが、実は裁判所の判例生存権を法的な抽象的権利とする立場を意識しつつ、この憲法25条を努力義務としてしまうプログラム規定的な考え方に傾いている印象です。


でも「どんな解釈であれ、ちゃんと生活保護などが行われているならいいじゃないか」という声が聞こえそうです。
その通りです。ちゃんと機能していれば問題ありません。
ですが、もし生活保護の受給資格などで裁判になったとき、プログラム規定的な考え方だと争う方法がないのです。
例えば、法的権利であれば国家賠償請求や、場合によっては、少し難しいですが立法不作為の違憲確認など裁判で争う方法があります。


憲法に定められた人権保障を、法解釈によって実質的に軽くしてしまっている一例と言えるかもしれません。


今回は分かり易くお話ししたために厳密性に欠け、語弊を招く部分もあるかもしれませんが、生存権という概念の一般的理解という意味でお役に立てればと思います。



@kimura_0807