寿町、さなぎの家に行ってきた


10月23日 横浜市 寿町

町には簡易宿泊所が林立していて、1ブロック先のビル街とは一線を画した雰囲気だった。

簡易宿泊所(通称ドヤ)とは、4畳半や6畳といった狭い部屋を安い値段で一泊できる施設であり、生活する環境としては劣悪なものも多い。

道を歩く人には、一見して路上生活者とわかる人達がかなりいた。
病気であろう、杖をついて歩く人、宿泊所の窓にはヒゲを掻きながら外を見つめる老人。
年季の入った食堂。路上に集積された生ゴミ袋。どこからともなくすえた匂い。

道端でたばこを吸いながら雑談しているおじさんたち、新聞とペンを片手に街角の競輪中継に一喜一憂する集団。この人たちが生活保護を受けて生活していることを考えると複雑な気持ちになった。


衝撃的な町並みだった。


町を一回りした後、NPO「さなぎ達」を訪れた。その一室にはソファー、漫画や小説の並ぶ本棚、囲碁や将棋などが置かれ、オープンコミュニティ的なスペースだった。


事務局長 櫻井 武麿氏からお話を聞くことが出来た。彼は急に訪ねて来たにもかかわらず笑顔で迎えてくれた。路上生活者についてや自身のNPOについて色々語って頂いた。


戦後の話。寿町一帯はアメリカ軍の占領地に置かれていたが、軍撤退の後そこに行き場を失った在日朝鮮人やその他外国人が住み着くようになり、寄せ場として形成されていったそうだ。


現在、寿町は簡易宿泊所を居住地とすることができ、生活保護の際に住所登録が認められている。寿町に住む路上生活者は6500〜7000人とも言われ、その内の約85%の方たちが生活保護簡易宿泊所での生活をしているそうだ。そういった生活保護で寿町に暮らす人には高齢者が多く、毎日孤独死する人が絶えないとの事。この町を訪れる際にも救急車が停まっていたのを思い出した。


また彼らの中には、工場や土木建築での非正規雇用、近年ではサービス業などの第三次産業から失業した人達が多いそうで、戦後の公安労働、バブル期の急ピッチなビル建設、サービス業の広がりといった経済の雇用拡大、縮小に左右されていた。


「日本の土台を築いていった人達なんだよ、彼らは。」と、事務局長は語る。
路上生活者を心からいたわる気持ちが垣間見える。


NPO発足のきっかけを伺ってみた。

1983年に路上生活者が襲撃されるという事件が起こった。なぜ彼らは襲われたのか、そもそも路上生活者とはどんな人たちなのか、という疑問を抱いた市民たちが彼らを知り理解しようと集まり、発足したという。


活動のスタンスとしては支援という形ではなく、彼らの自主性、自立に重きを置いている。路上生活者と対話したり、生の声を聞き、それを出来る範囲で実現していくという形で彼らとの繋がりを形成している。


今回訪れた「さなぎの家」も、憩いの場が欲しいという彼らからの要望で構えた場所だそうだ。さらにそこへ集まる路上生活者たちはルールを決めているそうで、そのスペースでは酒を飲まない、たばこは外で吸う、喧嘩はしない、といったルールを自主的に決めている。中にはアルコール依存症の人もいて自分への戒律として飲まないルールを決めたとの事。

訪れた時そこに居た方たちは、外でタバコをふかしながら楽しそうに談笑していた。


最後に事務局長が話してくれた。

「やっぱりお互い人間なんだし心を開くことが大事。お金だけじゃない、生きがいを含めての貧困だよね。楽しさを共有できる場を作ったり話をしたり。そういう架け橋的な仲介がしていければ理想だよね。それがボクの生きがい、かな。」


また訪れることを約束し、NPO「さなぎ達」を後にした。


今回寿町を訪ねて感じたこと。
それは簡易宿泊所の町並みがかなり劣悪な環境だと感じてしまったことだ。それは彼らの生活水準が自分たちの暮らしより下であると念頭にあるからに違いない。

そこに既に偏見がある。

生活水準が低いのは確かだが、彼らは今の暮らしで満足しているかもしれない、または今の生活を脱したいと思っている人も多いかもしれない。幸福の閾値は人によって違うし、彼らの閾値を私達は知らない。

一方的な支援という形は間違いだなと思う。彼らが何を望み、何を欲しているのか。路上生活者が選ぶ選択肢は多いはずだ。


そういった点で、寿町に拠点を置く「さなぎの家」の存在は大きい。
彼らの自主的なコミュニティ形成を手助けし、生きがいを見つけるきっかけを後押しする。


人と人の繋がりには貧富の差は関係ない。
人間には生きがいや楽しみが必要であり、それを誰かと共有する事でこの上なく幸せを感じる。
他愛もない話で笑いあう、娯楽で仲を深める、そういう些細なことでいい。要するに友達付き合い。


自分たちもその輪に入れたら、もっとお互いに理解し合えたら。


胸が熱くなる。

kaichamu