心の漸近線
どんなに心通ったと思ったって、決定的な立場の差に気付く、祭りのあと。
電車に揺られる僕たちにはあったかいお風呂と布団が待っていて、おじさんたちは新宿の寒空の下、冷たいコンクリートの上で今日も眠る。
互いが互いの世界に戻っていく。
それはまったく断絶した世界。
ほんのちょっと前まであそこには美味しい鍋があって、あたたかに揺らめく蝋燭の火があって、みんなの笑い声があった。
でも今この瞬間のあの場所を想像してみれば、それらはきれいさっぱりなくなっている。
僕らは「楽しかった思い出」に浸かるだろう。
おじさんたちもそうかもしれない。
でも、そうじゃないかもしれない。
楽しい時が過ぎ去りし後の、悲しいコントラストを噛みしめるのかもしれない。それは僕たちにはわからない。
先日、僕達はホームレスの方々とひとつの鍋をつつく交流会を催した。
「今日は若い人たちと話せて、楽しい!」
ほんのりと頬を紅潮させたおじさんから聞いたこの言葉を、僕はきっと一生忘れない。
しかし帰りの電車のなか僕の胸に去来したのは、上記のような心許ない、もやもやとした感情だった。
ホームレスの方々と関わり始めて数ヶ月。
僕が暖房のきいた部屋で布団にくるまるその時に、寒さにふるえて丸くなるホームレスがいるという現実を、恥ずかしながら僕はここに来てはじめて「発見」した。
そしてこの「我々」と「彼ら」の生活体験の厳然たる差のせいで、今の僕には両者の関係がどこまでも漸近線的に思えてならない。
僕は彼らと真に同じ地平に立つと断言できる日が、いつか来るだろうか。
真に同じ地平に立つと彼らが認めてくれる日が、いつか来るのだろうか。
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