ホームレスの写真を撮る

今回のブログはホームレスの方の実際を写真に収めている北山が担当します。ホームレスのおじさんの話や法的な内容ではなく、私個人の写真に対する姿勢みたいなものを知っていただければと思います。


どうしてホームレスの方の写真を撮るのか?

ホームレスの方にレンズを向ける行為に疑問を持たれている方も多いと思います。私もそう感じていました。


その理由にも色々あると思います。一つに、悲惨な境遇の人を見世物として捉えているのでは?という指摘です。

確かに、写真自体が見世物である以上、見世物的と言われても仕方ないかもしれません。では、ホームレスの方の写真は一切何人たりとも撮ってはならず、どんなものにも掲載禁止というスタンスをとっていいものでしょうか?

私はそうは思いません。撮影のやり方・掲載方法の考慮をすることが大切だと思います。

許可なく隠し撮りをし、ホームレスになってしまった方々がどうしてその状況になっているのかを知ろうとせず、単純に被写体として面白いという理由で撮っている人が知人にいました。ホームレス写真に関してカメラマンのスタンスが気になって、そういった写真が好きではなかったし、撮ろうとも考えていませんでした。

私がそれでもホームレスの方の写真を撮るようになった経緯。

以前、個人的に東京のドヤ街として有名な山谷にいるホームレスの方や寄場に泊まる人の取材をしていました。もちろんカメラ無しで。そこでホームレス問題を取材しているプロのカメラマンと出会い、彼はただ取材するのではなく、自らボランティアとして現場に長いこと身を置く人でした。「俺たちはこの状況を伝えなきゃならん。だけど、カメラマンが被写体をオブジェクトとしてだけ見たり、お勉強した知識だけで現状の問題を把握していると勘違いしたりすることはいけない。」「この現状を知ってもらうこと、それに尽きる。」

この出会いをきっかけに、自分にもできることを考えました。私は大学の写真部に所属していたので、写真展などで学生に写真を見てもらうことができました。世界的に見ても裕福な日本の首都東京の路上写真や、学生がホームレスの方と会話をしながら撮っている写真はきっと見てくれた人の心に残るはずだと考えました。

以後、カメラを持って取材するようになりました。まずはとにかくお話すること。写真は仲良くなって、撮ってもいいよと言われたら撮るようにしています。街を歩いていて気になったらシャッターを切りますが、必ず後から許可をとる。断られる事も多いですが、写真を撮ることだけがメインではないので、世間話などに盛り上がり、一枚もシャッターを切らない日もあります。


写真は言葉以上に人々に素早くイメージを伝えることができます。また、写真の持つ鮮烈なイメージは、時に、言葉により事細かに説明が尽くされた文章以上のものを伝えます。


私はホームレスの方の写真を撮り、見る人に何を感じ取ってほしいか?

可哀そうとか、大変そうとか、自業自得だとか、そういったことは見る人が自由に感じればいいと思っているので、私自身の思いとして、見る人に何か感じてほしいということはありません。ただ一つ言えることは、私の撮った写真が一枚でもいいから見た人の心の中でいつまでも残り、ホームレス問題を少しでも考えてらえたらと思います。


[twitter:@kk0823]

路上生活者の生存権


「健康で文化的な最低限度の生活」
よく聞くこの言葉は憲法25条に規定された生存権の文言です。
生きていく上で最低限の生活ができれば良いというものではありません。
人間らしく「健康で文化的な」生活が我々には保障されているのです。

「では、路上生活者は生存権が満たされているとは言えないのではないか?」

今回は「生存権とは何か」について法学に基き、法律家そして政府の解釈の実態について話そうと思います。




そもそも法的権利と呼ばれる人権は、侵害されたからといって全てが裁判所によって救済される訳ではありません。
例えば、一概には言えませんが、自由権などは侵害されれば裁判所に訴えて問題を解決して貰えます。
このような権利を具体的権利と呼んだりします。
一方で抽象的権利と呼ばれる権利があります。
これについては、憲法とは別に具体的な法律などが無いと裁判所は手を出せず、国会や行政によって救済して貰う形式をとります。多くの法律家の間では、生存権はこの抽象的権利に属すると考えられています。
路上生活者が生活が苦しいからといって裁判所は直接彼を助けることはしませんよね。
生活保護法という法律に基づいて行政が生活保護費を支払い救済します。
それでも行政が生活保護費を支払わないなど救済行為を怠れば、生活保護法に基づき裁判所が行政に働きかけます。

つまり、生存権とは行政の手によって救済されるべき権利なんだ、ということです。


では、当の行政側は生存権をどう捉えているのでしょう?
ここに問題があります。
実は政府の解釈では、生存権は法的権利とは認められていません。
政府は生存権について定めた憲法25条を、「実現するように政府は努力しましょう」と努力義務を定めただけのものだと考えているようです。こういう考え方をプログラム規定説と呼びます。
もちろん行政は生活保護などを実行し、努力をしています。
ただ、法解釈の面では生存権は法的権利ではないという見解があるのは事実です。


朝日訴訟、堀木訴訟など。
余談ですが、実は裁判所の判例生存権を法的な抽象的権利とする立場を意識しつつ、この憲法25条を努力義務としてしまうプログラム規定的な考え方に傾いている印象です。


でも「どんな解釈であれ、ちゃんと生活保護などが行われているならいいじゃないか」という声が聞こえそうです。
その通りです。ちゃんと機能していれば問題ありません。
ですが、もし生活保護の受給資格などで裁判になったとき、プログラム規定的な考え方だと争う方法がないのです。
例えば、法的権利であれば国家賠償請求や、場合によっては、少し難しいですが立法不作為の違憲確認など裁判で争う方法があります。


憲法に定められた人権保障を、法解釈によって実質的に軽くしてしまっている一例と言えるかもしれません。


今回は分かり易くお話ししたために厳密性に欠け、語弊を招く部分もあるかもしれませんが、生存権という概念の一般的理解という意味でお役に立てればと思います。



@kimura_0807

私のものさし、おじいさんのものさし

暖かそうな帽子とセーターを身に付け、バナナを食べていたおじいさん。話しかけると、聞いていたラジオを止め、話をしてくれた。
昭和10年生まれの、75歳。名前は聞かなくても良いだろ、ということで教えてもらえなかったが、公園暮らしを始めて、もう20年以上が経過する。出身は北海道だが、本人曰く、ギャンブルで身を崩して、故郷に帰れなくなってしまったとのこと。75歳で路上生活は大変なのではないかと思い、生活保護のことについて聞いてみると、生活保護は受けないと言い切った。体が動くかぎりは、福祉にかかるつもりはないと言う。倒れたら誰かが救急車を呼んでくれるさ。その口ぶりは、どこか寂しそうに聞こえた。


ところで、私がホームレスの人たちのことで気になるのは、彼らの食生活である。歯ブラシを使っていないのだろう、歯が斜めに欠けていたり、真っ黒になっているのを見るたびに、果たして彼らは食事をどうしているのだろう、と思っていた。一度炊き出しのご飯を食べたことがあるが、その時のご飯は、普段の食卓に並ぶような、普通のご飯の硬さであった。それを噛み合わせを持たない人が食べるのは、ものすごく大変なことなのではないだろうか。炊き出しのご飯はあのままで良いのか、という疑問もある。人それぞれ違うのかもしれないが、今回話をしてくれたおじいさんは一つの答えをくれた。
おじいさんの食事は炊き出しと、ボランティアの人が持ってくる食べ物で成り立っている。炊き出しはあちこちで行われているため、そこに出かければ食事は手に入る。しかし、歯がないために噛むことが出来ない。硬いご飯を飲み込むとお腹を壊してしまうため、毎回お湯をかけ、柔らかくしてから食べるのだそうだ。もっと良いものを食べたいと思わないかと尋ねると、おじいさんはこう答えた。「食べられるだけでありがたい。」年齢や健康状態を加味して作られた食事の前に、『食べれるか否か』ということが問題であることに改めて気付かされた。
別れ際、話をして頂いたお礼にお茶を差し出す。私は今回、お礼にはコーヒーではなく、あえてお茶を選んだ。コーヒーを飲むことは、おじいさんたちの歯をもっと欠けさせてしまうことになると思ったからだ。けれど、おじいさんの言葉は予想にないものだった。「お茶はいらない。水を飲むのと一緒だから。コーヒーなら良いけど。甘いかしょっぱいのが良い。」その言葉で、私は彼らを自分の常識に当てはめて考えていたのだと強く感じた。


相手に自分の常識を押し付けてしまったことを反省する一方で、おじいさんの反応は矛盾しているとも感じる。「食べられるだけでありがたい」と言ったおじいさん。炊き出しを『人から与えられるもの』として考えると、お茶を受け取ることも炊き出し同様にできたのではないかと思うのだ。私のお茶は、なぜ受け取ってもらえなかったのだろう。一つ考えられるのは、渡した相手が『私』であったからということである。『私』は、おじいさんからすれば、孫くらいの年齢の、しかも女の子である。彼のプライドが、私から物をもらうことを許さなかったのかもしれない。


支援を受けることを恥ずかしいと思う気持ちは、おじいさんの「体が丈夫である限りは福祉を受けない」という態度にも表れているように思う。支援団体からの炊き出しや生活品の提供に頼る、ということは他人のお金で生活することを意味する。このように、他人に頼ることと生活保護を受けてより安全な暮らしをすることが、恩恵を受けるという意味で変わらないのであれば、おじいさんは生活保護も受けようとして良いはずだ。それをしようとしないのは、生活保護を受けることをおじいさんが『恥』とみなしているからではないだろうか。社会からの価値判断を気にさせてしまう、『スティグマ』という問題がここに表れている。


数日後、再び同じ場所を訪れると、おじいさんがいた。私のことを覚えていてくれたようだ。体調と最近の生活について尋ねると、乾いた笑みを浮かべて、体調は最高、楽しいことばっかりですよと答えた。以前とは違うぶっきらぼうな態度を見て、私は『私』と話したくないのだということを感じた。早々に会話を切り上げ、今回はコーヒーを差し入れる。「いらないよ。」…やはり、断られてしまった。


まだ20年も生きていない私。それでもこの年になるまでに本当に沢山のことがあって、一年一年を事細かに思い出すことなど到底できない。そんな、気の遠くなるような20年という歳月を、路上で生きてきたおじいさんの気持ちは、私のものさしでははかれないだろうと思う。そんな相手と話をしたい、ということであるならば、相手の気持ちをもっと思いやって、向かい合っていくことが必要なのだと感じた。

[twitter:@hikan0]

のぼれない階段はどこまで続く


この数ヶ月間、路上生活者と対話を行ってきたが、その中で、ある程度見えてきたものがある。


路上生活に至るまでの過程は、段階的なものである。
ここでは、現在定職に就き、アパートで生活を送っている人を想定して話を進める。
何らかの原因で職を失ったとしても、雇用保険の給付や貯金のある数か月の間はアパートに住みながら就職活動を行う。
その数カ月の間に職につけない場合は、親族や知人の扶助を受けて生活することになる。
しかし、もとよりそうした関係性を持たない、あるいはこれ以上扶助を受けられないという状況になった場合。
この時、彼は路上で生活するほかないということになる。


一方で、路上から脱出しようとする場合にはこうした段階は存在しない。
社会生活を送る上で「住居」と「安定した就労」は不可欠だが、この2つは切り離して考えることが出来ない。
住所を持たない人が就ける職は限られているし、アパートを確保するためには安定した就労によって資金を準備する必要がある。
どちらか一方から順々に手にすることは難しい。1度に両方を手にしなければならない。


すなわち、路上に至る過程は段階的に進み、一方で路上からの復帰は全か無かの2択になっている。


自らも日雇労働者としての経験を持つ生田武志氏は、これを「カフカの階段」と呼んだ。
この表現は、カフカの「父からの手紙」にある1節を参照したものだ。

「たとえてみると、ここに2人の男がいて、一人は低い階段を5段ゆっくり昇っていくのに、別の男は1段だけ、しかし少なくとも彼自身にとっては先の5段を合わせたのと同じ高さを、一気によじあがろうとしているようなものです。 先の男は、その5段ばかりか、さらに100段、1000段と着実に昇りつめていくでしょう。そして振幅の大きい、きわめて多難な人生を実現することでしょう。しかしその間に昇った階段の一つ一つは、彼にとってはたいしたことではない。ところがもう一人の男にとっては、あの1段は、険しい、全力を尽くしても登り切ることのできない階段であり、それを乗り越えられないことはもちろん、そもそもそれに取っつくことさえ不可能なのです。意義の度合いがまるでちがうのです。」

僕は、この「カフカの階段」の概念に2点付け加えるべき部分があると考えている。
1点目として、1段1段を細かく見てみる。
すると、それぞれの段の中に次の3つの過程があることに気づく。

1.抵抗
上の段に戻ろうとすること。例)再就職活動、バイト代を切り詰めて貯金しようとするなど
2.挫折
抵抗の失敗。例)就職先が決まらない、体を壊してバイトを長期にわたり休まざるを得ないなど
3.安定
今いる段に落ち着くこと。例)日雇いの仕事を始めるなど

こうした過程を踏んでいく中で、多くの場合は1段上での生活水準を維持できないばかりか、自信を喪失し、上の段への復帰意欲を失っていく。
湯浅誠氏の唱える「五重の排除」の概念を借りれば、「自分自身からの排除」が進行していくのである。(詳しくは岩波新書『反貧困』を参照)


そして2点目。この階段はどこまで続いているのだろうか。
これまで路上に暮らす人たちにお話を伺ってきた実感として、この階段は路上に至ってからも間違いなく続いている。
例として、日雇いの仕事(主に建築/土木業)で収入を得ている路上生活者を考えてみる。
年齢や体力などの影響で日雇いの仕事を得る頻度が減ると、収入源はアルミ缶の収集や古本の販売などに変わっていく。
これらの仕事で得られる収入は、一般に日雇いのそれと比べかなり少ない。
さらに体力が低下すれば、こうした仕事を行うのも難しくなり、支援団体の炊き出しなどに頼っていくようになる。
このことは、生活の自立性が失われていくということを意味する。
こうして階段を下るにしたがって、社会生活への復帰はより困難になっていき、自分自身からの排除はますます進行していく。


以上のことから分かるように、路上生活者は生活水準や意欲について一義的に定まらない。
こうした段階的な差異は、彼らについて考えるときに軽視してはならない。


@tsukaki1990

釧路市の自立支援プログラムがおもしろい ―『ルポ 生活保護』


命の格差

衝撃的なデータがある。*1
生活保護受給者の平均死亡年齢は、女性71.6歳、男性63.8歳。
全国で死亡した人の平均年齢(女性80.1歳、男性73.3歳)に比べて10歳程度も若い。
貧困は命の格差をももたらす。
その原因は判然としないが、死の問題は生の問題の裏返しである。
長生きできない生を営んでいるということか。
 
******


先日、僕は仲間と「生活保護受給者の街」横浜市寿町を視察した
住民のほとんどが単身高齢者だが、彼らはとにかく暇を持て余していた。
部屋にひとりでいるよりはマシなのだろう、路上に出て昼間から酒を煽ったり、タバコをふかしながら仲間とたむろしたり。
保護受給によって晴れて住居と生活費を手に入れたわけだが、彼らの目はどこかうつろで力がなく、とても幸せそうには見えなかった。
実際この街では孤独死や自殺が後を絶たない。


あれが生活保護が保障する「最低限度の生活」なのか?
寿の街には本来暮らすべき社会として何かが欠如してはいないか?
そしてその欠如こそがまさしく「長生きできない生」の根源なのではないか?


本書に紹介された釧路市の自立支援プログラムは、そんな僕の疑問に答えを与える、非常に興味深いものであった。

ルポ 生活保護―貧困をなくす新たな取り組み (中公新書)

ルポ 生活保護―貧困をなくす新たな取り組み (中公新書)

自立支援プログラムとは何か

2004年12月、厚生労働省に設置された「生活保護制度の在り方に関する専門委員会」は、
“利用しやすく自立しやすい制度へ”というスローガンを掲げた。
「利用しやすく」というのは悪名高き水際作戦の撤廃などであり、「自立しやすい」というのは、最低生活保障を行うだけではなく受給者の自立を支援する観点から制度を見直すということである。

画期的であったのは、ここでいう自立とは「経済的自立」に限らないと明記した点。
もともと生活保護は経済的に困窮する国民を対象にした制度であるため、困窮者の自立とはもっぱら経済的な自立と受け止められがちである。

しかし生活保護法制定当時に、厚生社会・援護局保護課長であった小山進次郎氏は、『生活保護法の解釈と運用』のなかでこう述べる。
すこし固いが、非常に含蓄のある文章なので引用する。

最低生活の保障と共に、自立の助長ということを目的の中に含めたのは、「人をして人たるに値する存在」たらしめるには単にその最低生活を維持させるというだけでは十分でない。
凡そ人はすべてその中に何等かの自主独立の意味において可能性を包蔵している。
この内容的可能性を発見し、これを助長育成し、而して、その人をしてその能力に相応しい状態において社会生活に適応させることこそ、真実の意味において生存権を保障する所以である。
社会保障の制度であると共に、社会福祉の制度である生活保護制度としては、当然此処迄を目的とすべきであるとする考えに出でるものである。
従って、兎角誤解され易いように惰眠防止ということは、この制度が目的に従って最も効果的に運用された結果として起こることではあらうが、少なくとも「自立の助長」という表現で第一義的に意図されている所ではない。
自立の助長を目的に謳った趣旨は、そのような調子の低いものではないのである。

憲法25条に掲げられた「生存権」とは、「単にその最低生活を維持させる」だけではなく、「その人をしてその能力に相応しい状態において社会生活に適応させ」て初めて保障される。

前記の「生活保護制度の在り方に関する専門委員会」はこの生活保護法制定当時の理念に原点回帰し、

  1. 自分で自分の健康や生活を管理できるようになるための「日常生活自立支援」
  2. 社会的なつながりを回復するための「社会生活自立支援」
  3. 就労による「経済的自立支援」

という3段階の「自立」概念を打ち出した。
 
そして幅広い意味での「自立」を目標に取り入れられたのが自立支援プログラムだ。
厚生労働省は各自治体にそれぞれの実情に合わせた独自のプログラムの策定を求めた。

釧路市の自立支援プログラム

釧路市の自立支援プログラムは先進的な取り組みとして全国的に注目され、数多くの研究者やNPO、政治家などが視察訪問している。

釧路市では生活保護受給者が抱える状況に応じて、四段階のステップを用意している。

  1. [日常生活意欲向上プログラム]規則正しい日常生活がきちんと送れるようにする
  2. [就業体験的ボランティア事業プログラム]家の外へ出て、社会とのつながりを回復する
  3. [就業体験的プログラム]もう一歩踏み出し、就労へ向けた準備をする
  4. [就労支援プログラム]資格取得講座の受講やハローワークをなどを通して、就労を目指す

ボランティアから就労へ、と階段を登るように自立を目指すことに大きな特徴がある。
各プログラムごとにNPOや民間企業の協力を得ていくつかのメニューが用意され、
保護受給者は任意で作業を選ぶことができる。
ボランティアに携わる中で、日常生活のリズムや社会生活を取り戻し、同時に元気も回復していく。
もちろん、様々な事情で経済的な自立が困難な人には、日常生活・社会生活自立を回復したらそれを維持するという道も用意されている。

2006年度から2009年度までの4年間で、2455人が参加し、448人が仕事に就き、121人が保護廃止にこぎつけた。
経済的自立に至らずとも、ボランティアに携わって人から必要とされることで保護受給者が生きがいを見つけたり、受け皿としてのNPOや民間企業の職員、仕事仲間などと友達になって社会とのつながりを回復したりする意義は大きい。
本書では以下のように評価する。

 多くの生活保護受給者は、保護を受けていること自体に負い目を感じ、とりわけ働ける能力があるのに仕事がなく、生活保護を受けざるを得ない人々は、もやもやとした気持ちを募らせる。何度も就職面接で断られると、これまでの生き方や人格まで否定されたような気分になり、奈落の底に落ち込んでしまう。
 でもボランティアを通して社会との接点を持ち、社会に貢献する中で、自分の存在を肯定的に捉えられるようになり、元気を回復していく。
貧困はただ、保護費を支給するだけでは解消されない。人は社会とのつながり、「社会の役に立っている」という手応えを実感できないと、生きる気力がわかない。
釧路市の自立支援プログラムはボランティアを通して、その実感と、社会のなかの自分の居場所を提供している。しかも、受給者が一方的な福祉の受け手になるのではなく、福祉の担い手にもなる。地域に受け入れられた人が、今度は自分の力を地域に還元するという好循環が出来上がっているのだ。

僕が寿の街に感じたものは結局、保護受給者たちの「生き方の貧困」、「死に方の貧困」であった。
こうした問題を解決するためには、地域社会とのつながりを回復し、自己肯定感を生み出す仕組みづくりが欠かせない。
釧路市の取り組みは、袋小路に陥った生活保護行政に差すひとすじの希望と言えるかもしれない。

[twitter:@cosavich]

*1:藤原千沙・湯澤直美・石田浩「生活保護の受給期間―廃止世帯から見た考察」社会政策学会誌『社会政策』2010年2月、第一巻第四号

寿町、さなぎの家に行ってきた


10月23日 横浜市 寿町

町には簡易宿泊所が林立していて、1ブロック先のビル街とは一線を画した雰囲気だった。

簡易宿泊所(通称ドヤ)とは、4畳半や6畳といった狭い部屋を安い値段で一泊できる施設であり、生活する環境としては劣悪なものも多い。

道を歩く人には、一見して路上生活者とわかる人達がかなりいた。
病気であろう、杖をついて歩く人、宿泊所の窓にはヒゲを掻きながら外を見つめる老人。
年季の入った食堂。路上に集積された生ゴミ袋。どこからともなくすえた匂い。

道端でたばこを吸いながら雑談しているおじさんたち、新聞とペンを片手に街角の競輪中継に一喜一憂する集団。この人たちが生活保護を受けて生活していることを考えると複雑な気持ちになった。


衝撃的な町並みだった。


町を一回りした後、NPO「さなぎ達」を訪れた。その一室にはソファー、漫画や小説の並ぶ本棚、囲碁や将棋などが置かれ、オープンコミュニティ的なスペースだった。


事務局長 櫻井 武麿氏からお話を聞くことが出来た。彼は急に訪ねて来たにもかかわらず笑顔で迎えてくれた。路上生活者についてや自身のNPOについて色々語って頂いた。


戦後の話。寿町一帯はアメリカ軍の占領地に置かれていたが、軍撤退の後そこに行き場を失った在日朝鮮人やその他外国人が住み着くようになり、寄せ場として形成されていったそうだ。


現在、寿町は簡易宿泊所を居住地とすることができ、生活保護の際に住所登録が認められている。寿町に住む路上生活者は6500〜7000人とも言われ、その内の約85%の方たちが生活保護簡易宿泊所での生活をしているそうだ。そういった生活保護で寿町に暮らす人には高齢者が多く、毎日孤独死する人が絶えないとの事。この町を訪れる際にも救急車が停まっていたのを思い出した。


また彼らの中には、工場や土木建築での非正規雇用、近年ではサービス業などの第三次産業から失業した人達が多いそうで、戦後の公安労働、バブル期の急ピッチなビル建設、サービス業の広がりといった経済の雇用拡大、縮小に左右されていた。


「日本の土台を築いていった人達なんだよ、彼らは。」と、事務局長は語る。
路上生活者を心からいたわる気持ちが垣間見える。


NPO発足のきっかけを伺ってみた。

1983年に路上生活者が襲撃されるという事件が起こった。なぜ彼らは襲われたのか、そもそも路上生活者とはどんな人たちなのか、という疑問を抱いた市民たちが彼らを知り理解しようと集まり、発足したという。


活動のスタンスとしては支援という形ではなく、彼らの自主性、自立に重きを置いている。路上生活者と対話したり、生の声を聞き、それを出来る範囲で実現していくという形で彼らとの繋がりを形成している。


今回訪れた「さなぎの家」も、憩いの場が欲しいという彼らからの要望で構えた場所だそうだ。さらにそこへ集まる路上生活者たちはルールを決めているそうで、そのスペースでは酒を飲まない、たばこは外で吸う、喧嘩はしない、といったルールを自主的に決めている。中にはアルコール依存症の人もいて自分への戒律として飲まないルールを決めたとの事。

訪れた時そこに居た方たちは、外でタバコをふかしながら楽しそうに談笑していた。


最後に事務局長が話してくれた。

「やっぱりお互い人間なんだし心を開くことが大事。お金だけじゃない、生きがいを含めての貧困だよね。楽しさを共有できる場を作ったり話をしたり。そういう架け橋的な仲介がしていければ理想だよね。それがボクの生きがい、かな。」


また訪れることを約束し、NPO「さなぎ達」を後にした。


今回寿町を訪ねて感じたこと。
それは簡易宿泊所の町並みがかなり劣悪な環境だと感じてしまったことだ。それは彼らの生活水準が自分たちの暮らしより下であると念頭にあるからに違いない。

そこに既に偏見がある。

生活水準が低いのは確かだが、彼らは今の暮らしで満足しているかもしれない、または今の生活を脱したいと思っている人も多いかもしれない。幸福の閾値は人によって違うし、彼らの閾値を私達は知らない。

一方的な支援という形は間違いだなと思う。彼らが何を望み、何を欲しているのか。路上生活者が選ぶ選択肢は多いはずだ。


そういった点で、寿町に拠点を置く「さなぎの家」の存在は大きい。
彼らの自主的なコミュニティ形成を手助けし、生きがいを見つけるきっかけを後押しする。


人と人の繋がりには貧富の差は関係ない。
人間には生きがいや楽しみが必要であり、それを誰かと共有する事でこの上なく幸せを感じる。
他愛もない話で笑いあう、娯楽で仲を深める、そういう些細なことでいい。要するに友達付き合い。


自分たちもその輪に入れたら、もっとお互いに理解し合えたら。


胸が熱くなる。

kaichamu

おじさん、路上を楽しむ


新宿某所。

今回話したホームレスの方は斉藤さん(仮名)という、60歳のおじさんだった。

白くてモコモコした暖かそうな生地のシャツに紺のスウェット、赤いサンダルを履いた姿にグレーのベレー帽がよく似合う。

整った顔立ちで、泉谷しげるを柔らかくしたような優しげな雰囲気。声は明るく、口調もはっきりしている。笑うと綺麗な並びの白い歯が見えて、良い人柄が伝わってきた。

路上生活を始めてから2年ほど、主にアルミ缶収集で生計を立てている。曜日ごとに場所は違うが公園などにゴミ収集の業者が来て、グラム単位でアルミ缶や新聞紙を買い取ってもらう。

路上に落ちている缶を回収するだけではなく、付近の団地やマンションの管理人さんにかけあって、ゴミの分別ついでにアルミ缶をリサイクル回収させてもらったりもするそうだ。
斉藤さんはかなり集めているほうで、収入は週に1万前後、食事やお酒には困らない。

ホームレスの人たちに対し支援団体から炊き出しも多く行われているが、斉藤さんは特に顔を出さないと言う。
炊き出しのごはんは味がかなり淡白で、食べきれないほど量が多いのであまり好きではないらしい。食べるのに十分な収入はあるので、好きなものを選んで食べる。

着る物上下から下着、靴下、手袋、帽子、靴に毛布、寝袋まで、衣類も週に一回は支援団体からの支給があるおかげで特に困ることはない。
日用品も同様に貰えるほか、近所の100円ショップで安く買えるため必要なものは揃っているという。

新宿付近にいるホームレスの人たちの多くは、天気の悪い日には都庁下の広場などに集まり雨をしのいでいるが、斉藤さんは雨風を防ぎ、大人ひとりが寝るのに十分な場所を木材やブルーシートで作っており、寝る場所を転々としているわけではない。

このように衣食住がこと足りている事には驚いた。少なくとも本人には苦しい生活というわけではないらしい。

他のホームレスの人や一部地域の人とも交流があって、人とのつながりもある。マンションのゴミ出しの際に仲良くなった主婦のおばちゃんからは毎回差し入れをもらったり、時に自宅でごはんをご馳走になったりする。

春の花見や秋の紅葉など、お祭りムードで公園に人が多く集まるときは、歌舞伎町の若いお姉さんたちとお酒を楽しんだりもするらしい。


斉藤さんの表情や声は明るく、生き生きとしていた。


衣食住や生計・収入に関わる路上生活全般以外にも話は及び、漁師や船大工、板前など昔は色々な仕事をしていたこと、趣味だった海釣りの話、好きなお酒の種類やセブンイレブンのお気に入りメニュー等など、斉藤さんのプライベートな話や世間話なども聞くことができた。話していて単純に楽しくて、あっという間の2時間だった。


斉藤さんは路上生活を楽しんでいる。


以前話したことのあるホームレスの人たちの中には、家族や友人含めほとんど人とのつながりを失っている人もいれば、ひどく疲れた様子で寝床をフラフラと探し歩く人、心身に障害を持っており働くことや会話自体が難しい人など、ホームレスとしての生活に苦しんでいる人がやはり多かった。

それだけに今回の斉藤さんのように貧困に苦しんでいるわけではなく、むしろ路上生活を楽しんですらいるような人もいるというのは驚きであったし、「ホームレス」という一概念で一くくりにはできないということを改めて感じた。だからこそ、対話を通してホームレスの方々一人ひとりの事をよりよく知っていくことが大切だ。


斉藤さんとは今回、初対面だったこともあり広く浅くしか話せなかったが、斉藤さんのライフストーリーやホームレスになった詳しい経緯、ホームレスの人に回ってくる変わった仕事の話など、深く掘り下げて聞いてみたら面白そうな話もたくさんあった。

それはこれから何度も会いに行く中で信頼関係が生まれてこそ聞ける話だろう。こちらの人生勉強になるような話も多々あったし、ぜひまた会いに行きたいと思う。

そして今度は話を聞くだけではなく、自分という人間がどういう人なのかを開いて話し、知ってもらうことで、もっと親密になりたい。個人的には、ホームレスの人たちと友達のようになれたらと最高だと思っている。


一人の人間として、つながりを築いていくことが出来たなら。
ホームレスの人たちの生の声を、想いを、多くの人に伝える架け橋になれたなら。


やりがいは、ある。

[twitter:@mutwo_0712]